2006年12月1日 場所を変えて再開。
でも、ほとんど日常のだらだら話ばかりで、鳥の話は滅多にないと思われます。むしろ虎ばか・・・。
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昨年は牛男になった恒例の「干支の山」・・・昨年は残り5日でようやく登ったわけだが、今年もやっぱり?12月に入ってしまった。
幸い「寅(虎)の山」には雪が降ってからでも行ける山がけっこうあるので、二進も三進も行かないようになることはないのだが、それが今の時期まで遅れる原因でもあるのでありがたさも半分だ。
戯言はそのくらいにしておいて本題へ・・・今回、選んだ山は滋賀県の「虎御前山(224m)」・・・織田信長が浅井長政との戦いで砦を築いたところで、往復2時間も掛からないというお手頃な山である。
8時にT氏と待ち合わせ、北陸道経由で10時20分頃に登り口の中野駐車場に到着、靴を履き替え、小道具の入ったリュックを背負って、早速、歩き始める!
登り口の看板には、(1)頂上である「伝 織田信長陣地跡」までを往復する「のんびり1時間コース」、(2)その先の「伝 木下秀吉陣地跡」、「伝 柴田勝家陣地跡」を経由して下山し「虎御前山」の脇道を戻ってくる「まるごと2時間コース」、(3)さらに「小谷山」の山頂まで登ってJR河毛駅まで歩く「よくばり5時間コース」の3つが紹介されていた。登り口まで戻らなくてはいけないおやじ達は当然、(1)か(2)になるわけだが、車道を歩くのはあまり好きではないので、とりあえず(1)+「伝 木下秀吉陣地跡」・「伝 柴田勝家陣地跡」にして、その場で判断することにした。
登り口からちょっと歩くとすぐに矢合神社へ向かう参道と藤棚のある尾根の真ん中の道に別れる・・・当然、信仰心の篤いおやじ達が参道を歩く・・・すぐに矢合神社に到着!神社なのになぜかお寺のような釣鐘がある。由緒書きによると「戦火をまぬがれし道成寺のものを移築したものなり」だそうだ。
お参りをすませて神社を抜け、展望台の脇を巻いたら「虎御前山教育キャンプ場」の入り口に・・・キャンプ場は藤棚や展望台と同様に尾根の真ん中の見晴らしの良い部分を占領して建てられている。なんとなく自然が呼んでいる気がしたおやじはトイレに行きたかったが、シーズンオフでしっかり施錠されていて断念、キャンプ場は通らず舗装された立派な脇道を歩く。
脇道はやがてフェンスで車止めされたdocomo中継局の入り口に到着する。ここはキャンプ場の裏門?に当たるところで10台くらいの駐車スペースになっている。つまりここまで車で来れるわけだが・・・歩いた方がおもしろいことは後でわかる。フェンス脇には「虎御前山」と「長浜市」のパンフレットが入ったボックスが・・・荷物にはならないのでいただいておきましょう。
フェンスから落ち葉がびっしり敷き詰められた道路を歩く。道路脇からは伊吹山から雲仙山方面の展望が素晴らしい。やがてdocomo中継局に到着、そのすぐ横が「伝 滝川一益陣地跡」で立派な石柱が立てられている。ここには202.9mの三等三角点があるので、もちろんチェックである。
「伝 滝川一益陣地跡」からは山道になり、5分くらいすると小高く開けた「伝 堀秀政陣地跡」に到着する。もちろんここにも立派な石柱がある。ここから一旦下って登り返すと「虎御前山(224m)」の山頂である「伝 織田信長陣地跡」に到着だ。\(^O^)/
さすがに総大将の陣地だけあってかなり広い・・・雑木越しだが正面には小谷山(城)が間近に見える。そして石柱だけでなく新しい解説版もある。
もちろん、山頂なので「虎御前山」の山名表示板もあるが、なぜか標高が229m・・・国土地理院の地図だと224mの標高となっているが、どちらが正しいのだ???パンフレットには約230mとなっているだけなので真相は不明・・・困ったものだ(笑)。
さて、標高はよく判らなくても、干支の山2010登頂には違わないので、恒例の記念撮影タイム・・・昨年は牛男になったので今年は虎男になる!・・・というのは当然だが、今年は着ぐるみではなくタイガースのレプリカユニフォーム!!・・・ひーやん('91~'00)とレッド('07~ )だ!!本当はダイナマイト打線('48~'49)とソデにOSAKA入り('65~'69)も持ってくるつもりだったのだが・・・忘れたのだ (^-^;)・・・12年後に着よう(笑)ちなみに12年前はひーやん+ヘルメットで撮影していた (^o^)
こうして、お馬鹿な記念撮影をしているうちに時間があっと言う間に過ぎてしまい、ちょっと焦って昼食もとらずに最前線の二つの陣地跡へと急ぐ・・・
まずは「伝 木下秀吉陣地跡」・・・「伝 織田信長陣地跡」ほど広くはないが、小谷城に向けた三段?の帯状曲輪や横堀なんかもあって非常に立派である。最前線だから当然、立派なのだと思うが・・・ちなみに解説板はあるが、石柱はなく黒っぽい木柱のみ・・・どうやら所属?市町の違いによるものらしい。
ここから帯状曲輪を下って少し行ったところが「伝 柴田勝家陣地跡」・・・「伝 木下秀吉陣地跡」に比べてかなり小規模・・・整備状態もイマイチで解説板もなく木柱のみ・・・あるサイトには当時の二人の格付けから、この陣地配置はあり得ないのではないかという記述があるが、確かにそれも頷けるような位置や規模である。ま、歴史は勝者の歴史ですからな。
「まるごと2時間コース」だと、このまま下って脇道を歩くわけだが、登り返しも大したことはないし、車道を歩くのは面白くないので、(基本的に)来た道を戻ることにする。
docomo中継局のフェンスまでは来た道を歩き、キャンプ場の裏門?から場内へ・・・ここは「伝 丹羽長秀陣地跡」で石柱も解説板もあるのだが、施設の中なので雰囲気は残念ながらイマイチである・・・でも、眺めはとっても素晴らしい。伊吹山方面も、反対の琵琶湖方面もバッチリである。この先にある展望台も眺めは良いのだが、残念ながら伊吹山方面のすぐ目の前には送電線があって写真的にはイマイチ・・・どっちが先かは知らないが残念なことです。
ここから少し下ったところにあるのが「伝 蜂屋頼隆陣地跡」・・・なんでも丹羽長秀の義弟でもあった武将らしいが、おやじは知りませんでした。案内図には「北山古墳」とも記載されているが・・・案内板もなく、どんな古墳なのかは不明・・・というより、テントサイトになっていた。
そして、矢合神社の先の小山のそのまた先にあるのが「伝 多賀貞能陣地跡(一本松古墳)」・・・多賀大社にゆかりのある武将らしいがこちらも初耳・・・ただ、後で調べてみたら養子である「多賀秀種」は加賀藩第3代藩主前田利常に仕えていた人だった。
あとは紅葉に囲まれた尾根道を下って、めでたく「干支の山2010」ミッション終了!所要時間2時間45分、歩行距離約5.5km、標高差約130mのミニ山旅であった。
この後、車で小谷城跡へと向かい、番所から本丸跡までを往復、そして小谷城戦国資料館で100名城スタンプを無事ゲットして、本日の全日程を終了(詳細は省略)・・・北陸道・敦賀IC-武生IC間が事故で通行止めになったのが想定外ではあったが、好天に恵まれとても楽しい一日になったのであった。
さて、来年の卯年にはどこに登りますかな・・・と、いつもここまでは早いのだが・・・。
虎御前山の登り口(L)、矢合神社(R)
「伝 滝川一益陣地跡」 (L)、「202.9mの三等三角点」(R)
「伝 堀秀政陣地跡」(L)、「伝 織田信長陣地跡」(R)
「伝 木下秀吉陣地跡」へ続く尾根からの 「伊吹山」(L)、「雲仙山」(R)
「伝 木下秀吉陣地跡」 (L)、横堀(R)
帯状曲輪 (L)、「小谷城」が見える(R)
下部から見上げた「伝 木下秀吉陣地跡」(L)、「伝 柴田勝家陣地跡」(R)
「伝 丹羽長秀陣地跡」 (L)、「琵琶湖」と「山本山」(R)
「伝 蜂屋頼隆陣地跡」 (L)、「伝 多賀貞能陣地跡」R)
【小谷城址の写真】
「番所跡」から「本丸」へ(L)、L字型曲輪のある「お茶屋跡」(R)
「馬洗池」(L)、大河ドラマロケ用に伐採された?「御馬屋跡」(R)
内通者の首を晒した「首据石」(L)、「黒金門跡」(R)
最大の曲輪「大広間跡(千畳敷)」(L)、「本丸跡」の石垣(R)
「本丸跡」から「大広間跡」を見下ろす(L)、「天守跡」(R)
左右二段の曲輪からなる「桜馬場跡」(L)、記念碑(R)
「桜馬場跡」から見た「琵琶湖」(L)、「小谷山山頂」(R)
「浅井長政公」最期の地「赤尾屋敷」(L)、「長政公慰霊碑」(R)
本日の脳年齢:21才0ヶ月(前日比:+1才0ヶ月)
本日の総歩数:12,037歩(前日比:+4,751歩)
幸い「寅(虎)の山」には雪が降ってからでも行ける山がけっこうあるので、二進も三進も行かないようになることはないのだが、それが今の時期まで遅れる原因でもあるのでありがたさも半分だ。
戯言はそのくらいにしておいて本題へ・・・今回、選んだ山は滋賀県の「虎御前山(224m)」・・・織田信長が浅井長政との戦いで砦を築いたところで、往復2時間も掛からないというお手頃な山である。
8時にT氏と待ち合わせ、北陸道経由で10時20分頃に登り口の中野駐車場に到着、靴を履き替え、小道具の入ったリュックを背負って、早速、歩き始める!
登り口の看板には、(1)頂上である「伝 織田信長陣地跡」までを往復する「のんびり1時間コース」、(2)その先の「伝 木下秀吉陣地跡」、「伝 柴田勝家陣地跡」を経由して下山し「虎御前山」の脇道を戻ってくる「まるごと2時間コース」、(3)さらに「小谷山」の山頂まで登ってJR河毛駅まで歩く「よくばり5時間コース」の3つが紹介されていた。登り口まで戻らなくてはいけないおやじ達は当然、(1)か(2)になるわけだが、車道を歩くのはあまり好きではないので、とりあえず(1)+「伝 木下秀吉陣地跡」・「伝 柴田勝家陣地跡」にして、その場で判断することにした。
登り口からちょっと歩くとすぐに矢合神社へ向かう参道と藤棚のある尾根の真ん中の道に別れる・・・当然、信仰心の篤いおやじ達が参道を歩く・・・すぐに矢合神社に到着!神社なのになぜかお寺のような釣鐘がある。由緒書きによると「戦火をまぬがれし道成寺のものを移築したものなり」だそうだ。
お参りをすませて神社を抜け、展望台の脇を巻いたら「虎御前山教育キャンプ場」の入り口に・・・キャンプ場は藤棚や展望台と同様に尾根の真ん中の見晴らしの良い部分を占領して建てられている。なんとなく自然が呼んでいる気がしたおやじはトイレに行きたかったが、シーズンオフでしっかり施錠されていて断念、キャンプ場は通らず舗装された立派な脇道を歩く。
脇道はやがてフェンスで車止めされたdocomo中継局の入り口に到着する。ここはキャンプ場の裏門?に当たるところで10台くらいの駐車スペースになっている。つまりここまで車で来れるわけだが・・・歩いた方がおもしろいことは後でわかる。フェンス脇には「虎御前山」と「長浜市」のパンフレットが入ったボックスが・・・荷物にはならないのでいただいておきましょう。
フェンスから落ち葉がびっしり敷き詰められた道路を歩く。道路脇からは伊吹山から雲仙山方面の展望が素晴らしい。やがてdocomo中継局に到着、そのすぐ横が「伝 滝川一益陣地跡」で立派な石柱が立てられている。ここには202.9mの三等三角点があるので、もちろんチェックである。
「伝 滝川一益陣地跡」からは山道になり、5分くらいすると小高く開けた「伝 堀秀政陣地跡」に到着する。もちろんここにも立派な石柱がある。ここから一旦下って登り返すと「虎御前山(224m)」の山頂である「伝 織田信長陣地跡」に到着だ。\(^O^)/
さすがに総大将の陣地だけあってかなり広い・・・雑木越しだが正面には小谷山(城)が間近に見える。そして石柱だけでなく新しい解説版もある。
もちろん、山頂なので「虎御前山」の山名表示板もあるが、なぜか標高が229m・・・国土地理院の地図だと224mの標高となっているが、どちらが正しいのだ???パンフレットには約230mとなっているだけなので真相は不明・・・困ったものだ(笑)。
さて、標高はよく判らなくても、干支の山2010登頂には違わないので、恒例の記念撮影タイム・・・昨年は牛男になったので今年は虎男になる!・・・というのは当然だが、今年は着ぐるみではなくタイガースのレプリカユニフォーム!!・・・ひーやん('91~'00)とレッド('07~ )だ!!本当はダイナマイト打線('48~'49)とソデにOSAKA入り('65~'69)も持ってくるつもりだったのだが・・・忘れたのだ (^-^;)・・・12年後に着よう(笑)ちなみに12年前はひーやん+ヘルメットで撮影していた (^o^)
こうして、お馬鹿な記念撮影をしているうちに時間があっと言う間に過ぎてしまい、ちょっと焦って昼食もとらずに最前線の二つの陣地跡へと急ぐ・・・
まずは「伝 木下秀吉陣地跡」・・・「伝 織田信長陣地跡」ほど広くはないが、小谷城に向けた三段?の帯状曲輪や横堀なんかもあって非常に立派である。最前線だから当然、立派なのだと思うが・・・ちなみに解説板はあるが、石柱はなく黒っぽい木柱のみ・・・どうやら所属?市町の違いによるものらしい。
ここから帯状曲輪を下って少し行ったところが「伝 柴田勝家陣地跡」・・・「伝 木下秀吉陣地跡」に比べてかなり小規模・・・整備状態もイマイチで解説板もなく木柱のみ・・・あるサイトには当時の二人の格付けから、この陣地配置はあり得ないのではないかという記述があるが、確かにそれも頷けるような位置や規模である。ま、歴史は勝者の歴史ですからな。
「まるごと2時間コース」だと、このまま下って脇道を歩くわけだが、登り返しも大したことはないし、車道を歩くのは面白くないので、(基本的に)来た道を戻ることにする。
docomo中継局のフェンスまでは来た道を歩き、キャンプ場の裏門?から場内へ・・・ここは「伝 丹羽長秀陣地跡」で石柱も解説板もあるのだが、施設の中なので雰囲気は残念ながらイマイチである・・・でも、眺めはとっても素晴らしい。伊吹山方面も、反対の琵琶湖方面もバッチリである。この先にある展望台も眺めは良いのだが、残念ながら伊吹山方面のすぐ目の前には送電線があって写真的にはイマイチ・・・どっちが先かは知らないが残念なことです。
ここから少し下ったところにあるのが「伝 蜂屋頼隆陣地跡」・・・なんでも丹羽長秀の義弟でもあった武将らしいが、おやじは知りませんでした。案内図には「北山古墳」とも記載されているが・・・案内板もなく、どんな古墳なのかは不明・・・というより、テントサイトになっていた。
そして、矢合神社の先の小山のそのまた先にあるのが「伝 多賀貞能陣地跡(一本松古墳)」・・・多賀大社にゆかりのある武将らしいがこちらも初耳・・・ただ、後で調べてみたら養子である「多賀秀種」は加賀藩第3代藩主前田利常に仕えていた人だった。
あとは紅葉に囲まれた尾根道を下って、めでたく「干支の山2010」ミッション終了!所要時間2時間45分、歩行距離約5.5km、標高差約130mのミニ山旅であった。
この後、車で小谷城跡へと向かい、番所から本丸跡までを往復、そして小谷城戦国資料館で100名城スタンプを無事ゲットして、本日の全日程を終了(詳細は省略)・・・北陸道・敦賀IC-武生IC間が事故で通行止めになったのが想定外ではあったが、好天に恵まれとても楽しい一日になったのであった。
さて、来年の卯年にはどこに登りますかな・・・と、いつもここまでは早いのだが・・・。
虎御前山の登り口(L)、矢合神社(R)
「伝 滝川一益陣地跡」 (L)、「202.9mの三等三角点」(R)
「伝 堀秀政陣地跡」(L)、「伝 織田信長陣地跡」(R)
「伝 木下秀吉陣地跡」へ続く尾根からの 「伊吹山」(L)、「雲仙山」(R)
「伝 木下秀吉陣地跡」 (L)、横堀(R)
帯状曲輪 (L)、「小谷城」が見える(R)
下部から見上げた「伝 木下秀吉陣地跡」(L)、「伝 柴田勝家陣地跡」(R)
「伝 丹羽長秀陣地跡」 (L)、「琵琶湖」と「山本山」(R)
「伝 蜂屋頼隆陣地跡」 (L)、「伝 多賀貞能陣地跡」R)
【小谷城址の写真】
「番所跡」から「本丸」へ(L)、L字型曲輪のある「お茶屋跡」(R)
「馬洗池」(L)、大河ドラマロケ用に伐採された?「御馬屋跡」(R)
内通者の首を晒した「首据石」(L)、「黒金門跡」(R)
最大の曲輪「大広間跡(千畳敷)」(L)、「本丸跡」の石垣(R)
「本丸跡」から「大広間跡」を見下ろす(L)、「天守跡」(R)
左右二段の曲輪からなる「桜馬場跡」(L)、記念碑(R)
「桜馬場跡」から見た「琵琶湖」(L)、「小谷山山頂」(R)
「浅井長政公」最期の地「赤尾屋敷」(L)、「長政公慰霊碑」(R)
本日の脳年齢:21才0ヶ月(前日比:+1才0ヶ月)
本日の総歩数:12,037歩(前日比:+4,751歩)
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HN:
こし彦
性別:
男性
職業:
口述業
趣味:
道の駅きっぷ・ご朱印・テレビ・山・生き物
自己紹介:
石川県白山市在住のテレビっこおやじ。元鳥ばか・・・ずっと虎ばか、
道の駅きっぷとご朱印を求めて西へ東へ徘徊、たまには甲子園に出没・・・したいが、分不相応に忙しくて思うように徘徊出来ないのが悩みのタネ。
ちなみにお気に入りの選手は、ひーやんと林ちゃん!
道の駅きっぷとご朱印を求めて西へ東へ徘徊、たまには甲子園に出没・・・したいが、分不相応に忙しくて思うように徘徊出来ないのが悩みのタネ。
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